男と女

b0058500_1464821.jpg「男と女」という20枚シナリオの課題があります。

この課題では、男と女の間の感情を描く人よりも、男というものは云々、女というものは云々、とディスカッションドラマを描く人が多いようです。

感情を描くには、せっかくのうってつけの課題なのに、残念です。

でも、なぜでしょう?

ディスカッションドラマで「男と女」を描く作者は、若い男性が多いようです。

ドラマとして「男と女」を描こうにも、「男と女」の考え方の違いがわからないので、作者のなかにいる、あい反する疑問をもつふたりに討論させているのではないかな、と思います。

昔は、女から男をわかろうとしたことはあっても、男から女へはあまりなかったのではないでしょうか?

でも、いくら昔といえども、そうはいかないのが人間の本音。本音としての男が、女のわからない部分へ疑問を抱き、悩み、追及しようと思って、立ち進んだことにより、文学、映画等の名作が生まれたのではないでしょうか?

わからないから魅力的なのであって、わかると少しも面白くないのに、わかろうとする。

でも相手が自分をわかろうとすることの目的がなにであるのかが、これがまた厄介で、蓋がしめられたままの状態で買わなければならない、なかみの見えないお弁当のようなもの。

 ともすればかろきねたみのきざしくる
 日がなかなしくものなど縫はむ

岡本かの子のうたです。

ものを縫いながら、家を留守にしている夫のことを思いめぐらし妬いている気持ち。

このうたのあと、かの子さんは文学、詩歌へと旺盛にいどみ、奔放な女性になったのですが、はたして女として幸せなのかどうか?

今の女性なら、ものなど縫いながら、例えば、シナリオのこと、考えよっ!となるのでしょうが…
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# by nomelier | 2007-01-10 14:08 | Drama

悪友

b0058500_1423030.jpg先日、故倉田先生の七回忌偲ぶ会を有志でいたしました。

お寺でお参りを済ませ、会食のお店へ。

思ったよりも道のりはながく、夕暮れの道を黙々と列をなして歩きながら、心のなかでは当時のシナリオへの思いをそれぞれが反芻しているかのようでした。

漸く会場に着き、ひとまず乾杯。

センターと、倉田先生との出会いを語るスピーチへ。

それが、なんと、センターとの素晴らしい出会いという内容よりも、「うさんくさいと思った」というスピーチ連続。

「素晴らしい学校」というよりも、「こんな変な学校はない!」という意見も。

そう仰ったOさんはおん歳九十二歳。人生経験ご豊富なOさんがつくづくそう思われるのですから、本当の本当に変な学校なのですよね!

変な、とか、うさんくさいとか言いながら、こんなに長いあいだ、家族のようにしてセンターでシナリオを勉強しているわたしたち。どんな褒め言葉よりも、この世にひとつきりの、信頼の言葉ですね。

昔、高校時代の恩師から、ともに真面目に勉強した友人よりも、ともに悪いことをした悪友とは、ながく交友をあたためられる、と教えられました。

わたしはその教えが大好きで、最近、恩師に、 「先生は昔、こんなことを教えてくださいましたね」とお手紙を書いたのですが、このようなお返事をいただきました。

「悪しき友こそ尊べ。いいことは誰でも誘える。悪いことを誘いかけるのは余程の信頼がなければできない。だから悪友というのは本当に自分を信頼し、深い人間関係を保ってくれている。だから悪友は大切。悪友と交じり合った自分を顧みて言ったんだな」と…。

本当にいい先生です。

わたしはセンターで、かけがえのない悪友を得ました。

ステキな家族でもあります。そして知らず知らずのうちに、尊んでいることを実感します。

ともにシナリオの悪友でいましょう!
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# by nomelier | 2006-12-20 14:00 | Diary

ニーナ

b0058500_13584273.jpg「わたしはもうほんものの女優で、楽しみながら、うっとりしながら芝居をして、舞台に立つと酔ったようになって、自分がすばらしいと感じるの。……日ましに精神力が成長していくと感じたりするわ。……わたしたちの仕事で大事なものは――舞台に立つにしろ、ものを書くにしろ同じことなのよ――名声でも栄光でも、わたしの夢みていたようなものでもなくて、忍耐力だということがねえ。おのれの十字架を荷うすべてを知り、そして信ぜよ。わたしは信じているわ。だからそう辛くもないし、自分の使命を思えば、人生がこわくないんだわ」

チエホフの「かもめ」のニーナのセリフ。

わたしたちにとって、瞼の奥が痛くなってくるのは、「舞台に立つにしろ、ものを書くにしろ同じことなのよ」の――「ものを書く」というフレーズです。

ウクライナの女医さんの、バレンティナというガールフレンドがいます。

彼女は長年、日本に住み、とても苦労されています。

でも、大地にしっかり根をおろした、本当に日本人にはない、ボルシチのようなあたたかみを感じさせる人です。

彼女の澄んだ美しい瞳から、このニーナのセリフを思い浮かべました。

先のセリフの前に、

「わたしなんか殺されたっていいのに。わたし、へとへとだわ!……わたしはかもめよ……。いいえ、そうじゃない。わたしは、女優だわ。……あの人は芝居というものを信じないで、いつもわたしの夢を笑っていたわ。で、わたしもだんだん信じられなくなって、気落ちしてしまったの……。そこへ恋の苦しみ、嫉妬、絶え間ない赤ん坊の心配……。わたしは取るに足らない人間になって、でたらめな演技をしたわ……」

と、ニーナは彷徨うように過去を語ります。

お芝居をする人の、ものを作る人の、孤独との戦い、決意を、彼女を愛してくれる男性への決別の言葉へと、物悲しく、つなげて……
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# by nomelier | 2006-12-15 13:56 | Drama

不幸の中の幸せ

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先日、知人に付き添い、大学病院へ行きました。

総合待ちあいには病に悩むたくさんの患者さんたちが。

私の知人も病の不安に襲われています。

医療関係者には当たり前の毎日の光景であっても、ひとりひとり、患者さんの不安はさまざまです。

知人いわく、テレビも見たくないと。

確かにテレビは健康な人のための番組が多すぎます。

それに、病人にとっては、悲惨すぎて目をそむけたくなる事件の報道ばかり。番組制作関係者にとっては、当たり前なのでしょうが。

さまざまな仕事の、さまざまな関係者が、自分の関係していることに勤勉で、あるときには自分のおかれたカテゴリーしか見えないといった姿勢は、辛い立場にいる人や、社会から閉ざされてしまいそうな人を、より窮地に追いやることのように思え、知人がテレビを見たくないといった言葉が、シナリオに携わっているわたしには、重く響きました。

友だちが、ご主人の経営するブティックがうまくいかなくなって、夜逃げのように関西を去ったときのことを語っていました。

誰から見ても不幸この上ない夜逃げなのに、車の中でご主人と今までの楽しかった思い出話を繰りかえし、ずっと笑えていたと。

人から見ると不幸極まる状況でも、愛する人となら、お互いの笑顔を取り戻したくなって、冗談が言いあえるものです。

不幸なときこそ、冗談が言いあえるあたたかい関係を宝物に感じて、感謝したくなるものです。

不幸など誰しも願いたくはないけれど、不幸の中の幸せと、幸せの中の見えない不幸があるとしたら、不幸の中の幸せの方が、輝いています。

町に出れば若い人のためのお店。
自由にお金が使える層を狙ったファッション。
団塊の世代向けの企画。
悠々自適のシルバー層向けの旅行案内。

当たり前のことなのですが、それだけでいいのでしょうか?

テレビが見たくないという知人には、ラジオをプレゼントしました。

今度逢ったら、笑顔になれる話をしたいと思っています。
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# by nomelier | 2006-09-14 19:45 | Diary

勇気

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「これから世に出ようという人の作品からは、ちまちましているのじゃなくて、もっとびっくりするような創作意欲を感じたい」…。

ファッションのデザインコンクールでの、有名な審査員デザイナーの談。

とはいうものの、勇気あるシナリオとは?

ドラマの語源はギリシャ語の「行動」。
ニュアンスとしては、勇気、決断といった意味が含まれています。

主人公がクライマックスで勇気ある決断をくだすと、観客はカタルシスを感じます。

主人公の勇気に感動。ステキなシナリオですね?

でも、今は勇気が描きにくい時代なのではないでしょうか?

不登校、ひきこもり、ニート。勇気があるとはいえません。
もし勇気をもってそうしている若い人がいれば、勇気を称えたいのですが…。

勇気をもてば、出る杭になり、出た杭はうたれて、苛められて。

だから勇気はおさえなければならなくて、その抑圧がたまりにたまって、突如噴射するがごとく事件へ。

勇気は抑圧されていると危険です。だからドラマから、愛のある勇気を感じてもらいたい…。

やはり、作品からは作者の勇気が感じたいと思います。

どう評価されるか。

旨いといわれたい。
よく勉強しているね、といわれたい。
ものしりだね、といわれたい。
器用でかっこいいね、といわれたい。

そのような作品には感動できません。

作者の勇気を発見したい。でも、ちまちましていなくて、びっくりさせるような創作意欲とは、ともすればひとりよがりな自己陶酔になりがち。

でも敢えて、失敗すればいいのではないでしょうか?
失敗の数が、必ず作品のレベルをあげてくれるはずです。

コンクールも、出して出して、出しまくって、失敗と挫折を重ねてこそ、いいシナリオが描ける底力になると思います。

暑い毎日ですね? 失敗を恐れず、勇気あるシナリオを描いてくださいね。
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# by nomelier | 2006-08-12 19:28 | Drama

悲しい瞳 淋しい瞳

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秋の夜長ではない季節音痴。夜中に目が覚めると、嬉しくなってしまう癖がついています。

静かな夜中。ぽっかり空いた時間を神さまにプレゼントされたような気分。

そんなときに読むための本があります。フランスの哲学者・アランの「幸福論」という本です。

ウイットとやさしさに充ちた人生への教訓が書かれています。

先日、「ヘーゲルは、直接的な、もしくは自然的な魂は、つねに憂愁に包まれており、いわばおしつぶされている、と言っている」という文章を読みました。

いつも爽やかな人。いつもお洒落で、気配りと笑顔の絶えない大人の女性。
そんな人が一人で町を歩いているのを垣間見たことがあります。とても悲しい表情をしていました。

いつもコケティッシュで、反面あどけなくて、男の子から注目されている女の子。彼女は勉強家で、男の子を射止めることよりも、勉強が大好き。
そんなビビッドな女の子の、一人ぽっちの後ろ姿を見たことがあります。斜め後ろから覗く瞳は、不安と淋しさを湛えていました。

憂愁とは、なんてステキなのでしょう。声をかけることも阻ませます。

あらゆる事件や出来事も、彼らの憂愁に包まれた魂を周囲が愛せなかったから起こるのでは?

魂はおしつぶされたままエンドレスなのかも…。

一人ぽっちでいる人。その人はどんな風にしているでしょう?

なにかをしているのではなくても、仮になにかをしていても、瞳はどんななのでしょう?
なにを視つめているのでしょう?

女優の岸恵子さんがエッセイで、「影のある人が少なくなってきた」と書いていました。
彼女が愛したさまざまな男性の影を綴った本です。

影はなぜ少なくなってきたのでしょう?

翳りのある男と言えば、愛してやまない「浮雲」の森雅之。
あの狡さと弱さとやさしさという色気は、この頃は見られない。なんと言っても格好いい。

でも森雅之が格好いいだけではなくて、あの時代にはいいシナリオがあったんだとつくづく…
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# by nomelier | 2006-07-06 19:19 | Diary

歌ごころ

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先日、平安文学を教えていらっしゃる大学の先生にお目にかかりました。
まだずいぶんお若い女の先生です。

今の大学生は、講義が面白くないと、なんの反応もないとのこと。

それでなくても今は大学生へのアンケートが普通で、アンケートの質問には、「講義が面白いかどうか」というのもあるそうです。

紫式部、紀貫之、小野小町云々と言ったところで無反応。

そこで詩歌の心の流れを説明するのに、女性シンガー、一青窈の歌詞をあげられるそうです。

すると生徒たちの目は生き返ったように先生をみつめるそうです。

ハナミズキ(一青窈 作詞)

空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと
どうか来てほしい 水際まで来てほしい
つぼみをあげよう 庭のハナミズキ
薄紅色の可愛い君のね
果てない夢が ちゃんと終わりますように
君と好きな人が 百年続きますように

せつせつと恋ごころを綴った平安文学に近い、想いというもののディテールが伝わってくる詩ですね。

シナリオの世界では、プロとアマ、いろいろと違いがありますが、想いのディテールという面では、締め切りに追われているプロにアマは勝てると思います。

特に恋ごころのディテール。やっつけシナリオでは描けませんが!

或る恋愛小説家の女性は、執筆の前にホルモン注射を打たれるそうです。するとホルモンが活性化して、ラブモードに入れるそうです。

小洒落たセリフもいいけれど、せつせつと想いの伝わるセリフを読み味わいたいものです。

窓をあけると初夏の月。ラブソングを聴いて、せつせつと綴ってみるのもいい…
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# by nomelier | 2006-06-14 20:25 | Diary

ノスタルジー

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ゴールデンウィーク、若葉薫るハイウェイへドライブに出かけました。

きらきら光を放つ新緑。人の心も再生されれば…。
本当にむつかしい人の心の再生。
描かれたシナリオが読みたい。ドラマが見たいと思いました。
 
お休みの間に、天王寺、阿倍野、通天閣、今里付近を散歩しました。

驚きました。通天閣はすごい賑わいです。

上まであがる予定をやむなく変更してジャンジャン横丁へ。

串カツ屋さんもすごい行列。

同行した姉の感想では、「三丁目の夕日」のノスタルジーの影響とやら。

昭和的というキャッチフレーズで、大阪の昭和的エリアがマスコミにとりあげられたのでしょうね。私のノスタルジーでは通天閣もジャンジャン横丁も鄙びていて、あくまでマイナーでなければ魅力を発しません。

メジャーになんかならないでほしい。マイナーで妖しげで危なげであってほしい。

メジャーな観光地へと刹那的に変身した光景を、淋しく感じました。

テレビを見ていると、亀田三兄弟とえびちゃんブーム。

この両者が受けるという風潮が、面白くもあり、反面しっくりいきません。

今は忘れられた「男らしさ」「女らしさ」への、わかりやすいノスタルジー。

強い亀田三兄弟。リカちゃん人形のようなえびちゃん。

彼らのことよりも、受けさせている媒体のことが気になります。

わかりやすいノスタルジー。
具象化された、シンボライズ化、カルカチャライズ化された、ノスタルジー。

ビジュアルで表現しやすく、見る側も即時に認識しやすいものです。認識ではあっても、感じることではなく、映像の商戦としてはリスキーではなく、リスキーではないということは、そもそもがケチな根性。

ケチで、わかりやすいものばかりになってしまっては、いい大人も子どもも育たないような危惧を感じます。

いいドラマを描きたいと思う心を、きらきら輝かせたい季節ですね!
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# by nomelier | 2006-05-10 20:36 | Diary

桜のような女 梅のような女

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日本の花と言えば桜。

奈良時代は梅だったそうですが、桜への好みが定着していったのは平安時代になってからのこと。

江戸時代には桜の、「満開の美学」と「落花の美学」が、日本的な精神を顕すものとして好まれたそうです。

桜の花言葉は「精神美・優れた美人」。
梅の花言葉は「高潔・上品・忍耐」。

どちらの花が好きですか? 

日本の花と言われるだけあり、桜は誰しもが好ましく思える花ですね?

特に今年のようにいつまでも寒かった冬、日々の雑事に追われて自然とは遠い処であくせくすごし、ようやくそんななかで花冷えもすぎ、ふと突如、満開の桜に視界が奪われたときのカタルシス。なんとも言えない幸福感です。

私の好きな作家、宇野千代さんは、ご高齢になられるまで、パーティの席で桜の模様の振袖をお召しになっていました。多くの人に愛されている桜の模様の振袖を、オーラの気合いで着こなしてしまう格好いい精神性こそ、桜そのもののステキな作家でした。

宇野千代さんの小説では、「おはん」が一番好きです。

主人公、おはんは、梅の花のような女性だと思います。奥ゆかしい忍耐から芳しくのぼりたってくる情念。ぱっと咲き、潔く散りはしないけれど、静かに静かに情念を燃やし続け、そして、広い心で人を許す観音様のような微笑をも浮かべられる女性。この小説に登場する、もう一人の女性、おかよは、経済力もあり、この小説の語り部である男、「私」を養っているにも関わらず、「男がいなければ生きていけない」と、勝気な彼女は言い切り、あでやかでゆたかな焔で男を手放すまいと甘えます。

ある文章で宇野千代さんは、この小説に登場する、おはん、おかよ、二人の女性に翻弄される男「私」、この三人ともがご自身に内在していると書かれていました。

だからこそ、この三人の物語は読み流せはしません。

桜のような女。梅のような女。どちらが好きですか?

どちらが描いてみたいですか?
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# by nomelier | 2006-04-12 19:46 | Diary

昭和的人物像

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第29回日本アカデミー賞で最優秀賞を総なめした「ALWAYS三丁目の夕日」は昭和33年の東京下町が舞台。昭和は既にノスタルジーへ?

この頃、ゼミで濃い人物像がシナリオに登場してくると、若い人から「昭和的な人物像でした」という感想がでます。

懐古調すなわち昭和的。

懐古調になってしまうサイクルは本当に早いものだと思います。

ちょっと前までの懐古調とは、第二次大戦前、昭和初期の古き佳き時代でした。
もっとさかのぼれば大正浪漫。当たり前のようにそう思っていたのに、ついこの間まで私たちが生きてきた昭和が、既にノスタルジーになってしまっていることに少なからずショック!

わたしも「昭和的お婆ちゃんですなぁ」と呼ばれて、「ふんふん、あの頃はなぁ」なんて語っているような、あっと言う間にその日が来るような、焦りを!

「昭和的」というときのニュアンスとは? 路面電車や出始めのテレビ、冷蔵庫等は別として、昭和的人間とは?

団塊の世代が定年を迎え、センターにも団塊パワーが生まれるかも知れません。

団塊の世代を象徴する、濃い、熱い、人情味。
それは時代の感性とともに、紙一重の、暑苦しい、ウザッタイ、になってしまいます。

「昭和的」という言葉を調べていますと、昭和的イコール、アナログ的…とありました。なるほど、わかりやすいと思いました。
 
センターの新入生の資料請求も、昭和の時代は、切手を先に送ってきていただいて、その切手を使ってお送りするという、アナログ的なスタイルでした。

今は90%以上の方がインターネットで資料請求。
ポ、ポンとクリックすれば、それだけで資料がお手元に届きます。

それがいいことやら、悪いことやら… 明らかに、コミュニケーションは日々、少なくなっています。

あなただけの、昭和的人間を描いてみませんか?
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# by nomelier | 2006-03-22 20:07 | Movie

かわいい女

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退職八等官の娘オーレンカは、のべつ誰かを愛していた。

愛する人なしには、一時もいられない女であった。

愛した相手によって価値観も生活も変わり、しかし男たちはいつまでも彼女の前にいなかった。

二人の夫に先立たれ、次に愛した男には遠くに去られ、全てを失った彼女からは生きる意味さえ消え失せて…

チェホフの「かわいい女」はわたしの大好きな短篇小説です。

のべつ誰かを愛していたオーレンカを、愚かな女と思えなくて、この世で「かわいい女」とはなになのか、この世で愛するとはどういうことなのか、愛とは…と考えさせてくれるのが、この小説の魅力です。

「かわいい」という日本語が外国でクローズアップされているそうです。

ご存じ、ギャルが連発する「かわいい」。

語源は古語の「カホハユシ」。
顔がほてる、まともに見るに耐えないの意味から、相手を痛々しく思う意味へ転じたそうです。

大正時代、一世を風靡した竹久夢二。昭和の戦前戦後に人気を博した中原淳一。

葉書、便箋、封筒、栞など、彼らのかわいいグッズは乙女心をくすぐりつづけました。

この便箋でラブレターを書いてみたいと買ったものの、たいせつにしまっているだけで、使う勇気もでない切なさ… 

わたしたちのおばあさんやお母さんが娘だったころ、そんなかわいくて恥じらいのある乙女心が、夢二や淳一を崇拝しました。

今の時代、女子高生たちが「かわいい」を連発し、そして共通のどこやら売り手側を侮蔑した哂い声をあげる風潮からは、乙女心が消え去った淋しさを感じます。

乙女チックは、いずこへ。

「かわいい」を漢字で書くと、「可愛い」。
字のごとく、愛することが可能である。愛されることが可能である。

そんな意味で「かわいい女」と呼ばれたなら?
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# by nomelier | 2006-02-09 19:23 | Diary

今年のあなた 来年のあなた

毎年、年の暮れに清水寺で発表される、「今年の漢字」。

今年は「愛」という字でした。

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日本漢字能力検定協会が全国公募して決定。今年で十一回目だそうです。

過去の漢字は、95年「震」/阪神大震災。地下鉄サリン事件/96年「食」/O157による集団食中毒/97年「倒」/大企業倒産。銀行破綻/98年「毒」/和歌山毒物カレー事件/99年「末」世紀末/00年「金」/金メダル。金大中と金正日の初の南北首脳会/01年「戦」/アメリカ同時多発テロ事件/02年「帰」/初の日朝首脳会談。拉致された日本人5人の帰国/03年「虎」/阪神タイガースの18年振りの優勝/04年「災」/新潟中越地震。台風23号/05年「愛」/愛地球博。紀宮様の結婚。福原愛。愛の足りない事件。
と、過去の世相を反映する感じは、ほとんどが暗い漢字です。

今年の「愛」。連日報道される事件は愛の足りない事件というよりも、愛のない事件。

これから先も愛のない世の中が続いてゆく不安とともに、来年以降の「今年の漢字」が全て「愛」に決定しそうな予感すらします。

ミリオンセラーの「誰のために愛するか」(曽野綾子著)をひさしぶりに読みました。
若い頃に読んだのと、どのように読後感が変わっているのかを楽しみにしつつ… 

そして、ドラマの勉強を続けていて良かったと読後に思いました。

愛とはお金で買えるものではなく、出来あいのものでもなく、努力して育ててゆくもの。
ドラマの貫通行動と同じように、愛に向かう構成の波が、脳裏に浮かぶようになりました。

あなたにとって? 今年のあなたと来年のあなたを一文字の漢字であらわしたなら? 

わたしは仕事について、ときどきはしんどいと思うこともありますが、でもやっぱり楽しいと思う日がほとんどです。

それは、「夢」という字でいっぱいの人と毎日会えるからです。

来年もあなたと、「夢」いっぱいでお会いしましょう! 佳いお年を…
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# by nomelier | 2005-12-21 20:18 | Diary

愛をこめて

b0058500_20433044.jpgいつもお世話になっている中華料理店「蓬莱閣」では、ご主人のジャッキーが料理を作られ、奥さんの紅梅(ホンメイ)ちゃんが給仕をされています。

お店がお休みの日には、紅梅ちゃんが家族の料理を作られることがあるそうです。

それは、お店で出せないような、伊勢海老に鮑に蟹にと、ふんだんに豪華な食材を使われた料理だとか。中国でも海に近いところで育った紅梅ちゃんは、海の幸を思いのたけ使われるそうです。

いつもコストを思案して、リーズナブルな価格でメニューに載せられ、なおかつ美味しい料理を提供しようと頭を悩ませていらっしゃるご主人のジャッキーは、「コストの制限がないから、紅梅ちゃんの料理は美味しくてあたり前」と、ちょっと膨れ顔。

プロのシナリオとアマのシナリオ。
アマチュアがノーコストでいいかと言うと、海外ロケ等がふんだんに書かれていると採用されません。

特に放上映化を条件にしている懸賞では、最終審査近くでふるい落とされます。

それは放上映化にあたっての制作費のコストですが、別の意味での、シナリオを描きあげるにあたってのコストとは?

資料集めにお金をかける。手間隙をかける。それもコストでしょう。
でもお金をかけたからと言って、人間が描けることに直結するはずもありません。

それでは、アマチュアのメリットとは?

それは、プロにできないくらい喰いさがって人間を描こうとする熱意、人物に対する愛情、伝えたい気持ちだと思います。
喰いさがることもせず、表面的に、上手さにばかりとらわれて、いい加減なところで肝心の人間を愛さずに仕あげてしまっていては、経験を積んだプロに負けて当たり前です。

ジャッキーは膨れていたけれど、きっと紅梅ちゃんは、仕事がお休みの日には、美味しい料理を夫や子どもたちと一緒に食べたくて、コストもさることながら、愛をこめていらっしゃるのでしょう。

作品への、人物への、こめるほどの愛があれば、必ず思いは伝わります。
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# by nomelier | 2005-12-08 20:44 | Drama

月の夜汽車

b0058500_2063026.jpg先日、秋メニューを料理しようと意気ごんで、栗おこわを作ったところ、渋皮にあたり、猛烈なジンマシンにやられてしまいました。

痒いし、熱も出るしと、ひとり部屋で心細い夜長をすごしていますと、美空ひばりの十七回忌記念歌番組をテレビでやっていました。

それにしてもこれは単なるジンマシンではなくて、本当は大病をかかえているのかもしれないなどと心細さは増すばかり。

すっかり落ちこんだ気分で歌に聴きいっていますと、その歌詞に、はらり、はらり、と涙がこぼれました。

月の夜汽車

いつも二人で遊んだ小川
月の光に照らされて
消えてゆきます 夜汽車の窓で
ひとり見つめてゆく私
ああ 月の光をひきずりながら
長い汽笛が むせび泣く


フォークの神さまと呼ばれた岡林信康さんが、多忙な都会生活を捨てて、田舎暮らしをされた数年後、ふっと、それまで大嫌いだった演歌に惹かれ、作られた歌だそうです。

はらりと涙とは、琴線にふれること。ドラマを観ていて、心の琴線にふれるとき。

それはきっと、主人公のどうしようもなく追いつめられた気持ちに、お客さんが擬似体感できるときなのでしょう。

外国ではコンピューターのプログラムにより、映画のクライマックスが作れる時代だといいますが、秋の夜長、パソコンに向かうのをちょっとやめて、孤独をみつめてみるのもいい。
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# by nomelier | 2005-11-09 20:10 | Diary

「道」

b0058500_1922589.jpg先日、ひさしぶりにフェリーニの「道」を観ました。

小説も読むたびに感慨が変わるといいます。映画もそうです。

ずいぶん前には感じとれなかった感慨に包まれました。

アンソニー・クイン演じる大男、ザンパノは、映画の解説では、粗野で獣のような欲望しか持ちあわせない男と称されています。

若いころは、まさしくそう感じていたのですが、今回は、そのような男に感じられませんでした。特に彼が変わった男というよりも、どのような男であろうと、男の奥にひそんでいる、男そのもののように感じられました。

わたしもひねたものだと思います。あんまり幸せではなかったのか、否か… 八十歳か九十歳になったとき、また観てみましょう。きっと違うように感じていることでしょうね。

「道」ができるまでの記録を読みました。

ジュリエット・マシーナのジェルソミーナが息吹くまでのプロセス。

ジェルソミーナのセリフはほとんどなく、あっても深い意味を持つものではないから、マシーナは動作に精根をこめ、変わった歩き方にこだわったそうです。

軽やかなのは足だけで、両肩はずっしりした重みに抑えつけられていて、それまでの人生を引きずって歩くような印象に。

また、フェリーニは口を閉じたまま笑うようにマシーナに指示しました。それは彼が子どものころのマシーナの写真を見て注目した表情なのだそうです。

ジェルソミーナが大男と別れてついてこうか、どうしようかと迷った男がいます。その男が大男に殴られ死んでしまったとわかった瞬間、ジェルソミーナは指先をあごにあてて口を半開きにするのですが、それはマシーナが十歳のときに見た、死んだ我が子を見る女の写真が下敷きになっているそうです。

そこで、たちどまってしまいました。これほどひとりの女のイメージを創りだそうと瞑想するに価するほどの本を、はたしてわたしたちは描こうとしているのかどうか? 

悪い本から悪い映画は生まれても、いい本から悪い映画は生まれない、とい!
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# by nomelier | 2005-10-05 19:25 | Movie

マドンナ

b0058500_1847435.jpg上映期間中に観られなかった黒木和雄監督の「父と暮せば」をDVDで観ました。

井上ひさし氏の戯曲を映画化された作品です。

黒木監督には昨年、某所でご講演いただき、あらためて鑑賞していると、お人柄がふたたびじんわりと伝わってきました。

父と娘が思い出すクライマックスのシーン。父は広島でまともに被爆し、横にいた娘に自分をおいて、「逃げろ、逃げろ」と言いました。

娘は後ろ髪をひかれながらも逃げました。

そのことを娘は今も悔いていて、自分だけが生きていることを恥ずかしく思っています。

戯曲から映像へ。

この父が「逃げろ、逃げろ」というシーンを回想にすることはありがちでしょうが、INGの演技だけで撮られていました。

実際に多くの方が体験された被爆。回想にすることは、可能です。
でも、安易です。そのシーンを観ていると、涙がとまらなくなってきました。

木下恵介監督の「カルメン故郷に帰る」を観ました。

ご存じ、日本で初めてのカラー映画です。

田舎の駅に列車が着き、降りてきたストリップダンサーのカルメンと女友だち。
二人とも肌もあらわな極彩色の衣装。村人たちは沈んだ色調の野良衣装。
色彩だけでいかにカルメンがこの村で問題を起こすのかが伺い知れ、これから映画をワクワクして観ていける期待感でいっぱいにさせてくれます。

テレビがカラーになった時代には、アニメをカラーで観られるワクワク感に多くの子どもたちが包まれました。
技術の進歩は人に夢を与えるけれど、人を壊しもする。
そして、にわかづくりは、人を壊していく。

テレビで選挙の女性候補者を見ていると、そんな風に思えてきました。

刺客と呼ぶ方も呼ぶ方ですが、テレビ映りのための衣装や口紅のカラー選びに余念のない彼女たち。

ロック歌手のマドンナは格好いいけれど、やれやれといった気分になります。

人が壊れていきそうななかで、壊したくない気持ちはだれが埋めるのでしょう?
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# by nomelier | 2005-09-01 20:37 | Diary

二つのデビュー作品

b0058500_20124968.jpg最近、二つのデビュー作品を鑑賞しました。

チェーホフの長篇戯曲の処女作、「イワーノフ」。主人公は三十代半ばで人生に疲れ果てた、「泣きごとを言う不幸な人間」「余計者」です。

「ねえ、こういうことが僕は言いたいんですよ。うちにセミョーンという作男がいましたが、おぼえてるでしょう。ちょうど、麦打ちのときに、娘たちの前で力自慢をしようとして、ライ麦の袋を二つかついで体をこわしてしまった。まもなく死んでしまいましたがね。どうやら僕も無理をしすぎたような気がする。(略)背中にかついで、背骨が折れたんですよ」

と、主人公・イワーノフは友人に泣きごとを言います。

イワーノフが昔のように愛せなくなった病身の妻は、彼に新しい愛を与えようとする若い娘がいることを知り、意識を失い亡くなってしまいます。そうして、泣きごとを言い続けてきたイワーノフにも、本当のやりきれなさが訪れます。

超人、特別な人たちに視線が向けられてきたドラマや映画は、今、インターネットに人の関心が移り、見棄てられようとしています。特別な人ではなくて、どこにでもいる「余計者」の悩みを、丁寧にリアリティを伴って描くことのたいせつさを感じました。

もうひとつは木下恵介の監督デビュー作品、「花咲く港」。

原作は菊田一夫の戯曲です。太平洋戦争勃発のころ、九州甑島に、今は故人となった島の名士の遺児と称して、二人のペテン師がやってきたことから起こる大騒動の喜劇。

二人のペテン師は、造船事業を再興したいと島民にもちかけ、資金を持ち逃げしようと企むのですが、生まれついての善良さと弱気のため逃げ出せなくて、最後には彼らが島民を幸せにします。

こちらも「余計者」が登場。あたたかい視線の向けられた喜劇です。

アウトサイダーが人を幸せにする。この喜劇の流れは「寅さん」にもつながっていて、普遍的に人の心にぬくもりを与えてくれます。
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# by nomelier | 2005-07-28 20:13 | Drama

手紙

b0058500_18571196.jpg「戯曲は失敗して惨澹たるものとなった。劇場内には重苦しい緊張した軽蔑と当惑の色がみなぎった。俳優たちは途方もない愚を演じた。この教訓は、わたしは戯曲など書いてはならないということである」

「かもめ」が初演され、もののみごとに失敗したあとで、チェーホフが知人たちに宛てて書いた手紙です。

あのチェーホフがこのように失意の手紙を書いたことには、教えられることがたくさんあります。

やがて彼は、才能を予知した劇場の文芸担当者や、よき友人のアドバイスや、ポジションの違いから意見を戦わせる演出家を得て、確固たる戯曲作家になりました。

面白いのは、そうこうするうちに徐々に認められていき、チェーホフは、安心し、満更でもなくなっていくのですが、それでも、演出家に失望の気持ちを抱いていることです。

「あなたはすばらしく演じていられます。しかし、ただ、私の書いた人物ではないのです」とチェーホフ。

「どこが問題なんですか」と演出家。

「彼は格子柄の幅の広いズボンをはき、穴のあいた短靴をはいているんです」それ以上、演出家はチェーホフからなにも聞きだせませんでした。

大作家でさえこれほどの不安と不満を抱いていたことは、作り手として参考になります。

ふと思えば、書きあがった作品だけで向きあうわたしたち。孤島で喘ぐ姿は見えません。

マラソンランナーのことをよく考えます。

マラソンランナーをイメージするとき、わたしには勝利のゴールを切ったランナーの姿は浮かびません。ただ、走っている姿が、わたしにとってのマラソンランナーの姿です。

孤島で喘ぎ、喘ぐだけでなく、喜びを感じる、原稿の書きあがった喜び。さて、まだ、走ります。

永いあいだ一緒に学んだOさんが東京へ旅立たれます。
遠い東京へ行かれても、よき友人たちがここにいることを忘れないでいてくださいね。
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# by nomelier | 2005-07-07 18:59 | Diary

困ったちゃん

b0058500_2030940.jpgよく親は子に「人さまに迷惑さえかけなければ」と言います。

「迷惑さえかけなければ伸び伸び生きてほしいと思っているのよ」と託します。

託された子どもは、どうも胡散臭いなぁ、簡単に信じない方がいいなぁと、ちょっとひねた子なら親のうわてを決めます。

そして親は子を叱るときに、「だって、迷惑をかけるかも知れないじゃない」と、あたかも叱る自分の心が狭いのではなくて、「迷惑」という切り札のもと、叱らなければならない義務がある、叱っているのは私じゃなくて、「迷惑」に関しての常識なのよと摩り替えるかのごとく。

すると子どもは、やっぱりこう来たなと思います。

チャップリン、ビリー・ワイルダー、ニール・サイモンたちユダヤ人は本当に喜劇がうまい。

なぜだろうとユダヤの教えの本を読んでいると、ユダヤ教専門の教授が、迷惑をかけないようにとばかり考えていると、人間のスケールが小さくなるというユダヤの考えとともに、日本人の「迷惑さえかけなければ」という考えへの疑問を書かれていました。

疑問点は三つ。

一つは、他人に迷惑をかけない人間が実際にいるのかどうか?

二つ目は、自分が他人の迷惑になっていないと思い込んでいる人ほど、実際には他人に平気で迷惑をかけているのではないか? 

三つ目は、他人に迷惑をかけなければという姿勢が、常識という名を借りて他人に境界線を引き、ひいては他人に対する心の冷たさにつながっているのではないか? と三つあげられていました。

 「困ったちゃん」をドラマに登場させようと、東京校の先生が推奨されていました。

この「困ったちゃん」が、いわゆる迷惑をかける人。
迷惑だけれど、愛さずにいられない。

と、そうこなくっちゃドラマでは面白くありません。

この頃は迷惑どころか、ちょっとおかしくて、淋しい。

ロボットはスイッチを入れなければ動かないし、迷惑はかけないけれど… 
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# by nomelier | 2005-06-01 20:29 | Drama

時は進み

b0058500_2023713.jpg人を殺した男が、女連れの方が見つかりにくいと云う魂胆で、日劇ダンサーの女を連れて逃げる。

男は意志が弱く、それ故に悪事しか働けない。男に愛想も尽きているのだが、離れられず、ついていくしかない女。

二人は汽車に。熱海で降りて、トラックにヒッチハイク。

不機嫌な女。
トラックはトンネルへ。

トンネルから出ると女にちょっと変化が。

やさしい顔になっている。
トンネルの中で、男がキスしたらしい。

またして次なるトンネルへ。

出てくると、今度は女は男にひっついている。ほだされていく女。

一方のほだす男の手がアップで映ると、爪の先は垢まみれ。
洒落たドンファンではない男が悲しく可笑しい…。

木下恵介の映画「女」より。男は小澤栄太郎、女は水戸光子。

ここからは、数秒の映像で人間の相矛盾する心を描く、シナリオならではの妙味を感じます。
これが小説ならば原稿用紙を何枚も使って、人間の心理の複雑さを表現することでしょう。
限られたシナリオと云う時間芸術の中で、人間の複雑さを描くには、どうすればいいのでしょう?

飽きることなく人間に興味を持って、人間を視つめることから逃げないことが大切なのだと思います。

ワイプの旨さで思い出すのは、山中貞雄の「丹下左膳余話 百万両の壺」です。

子どもなんて、でぃっ嫌いだ、と云うニヒルな大河内伝次郎の丹下左膳が、ワイプの後、子どもと手を繋いで歩いていきます。

そこからは時は進み、人は変わり、あるいは本質に戻れる、生きていくことの、ささやかだけれどステキな幸せ感が伝わります。

昨日、嫌いと思った人が、今日逢えば、嫌いと思った気持ちは失せていき、そんな風に続いていく日々。

時は進み、映像は進み、進む中でその都度、一つ一つの小さな終局を迎え、それでも依然進む中で、きっと変わられる人生を描けたなら…。
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# by nomelier | 2005-04-27 20:28 | Movie