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昭和的人物像

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第29回日本アカデミー賞で最優秀賞を総なめした「ALWAYS三丁目の夕日」は昭和33年の東京下町が舞台。昭和は既にノスタルジーへ?

この頃、ゼミで濃い人物像がシナリオに登場してくると、若い人から「昭和的な人物像でした」という感想がでます。

懐古調すなわち昭和的。

懐古調になってしまうサイクルは本当に早いものだと思います。

ちょっと前までの懐古調とは、第二次大戦前、昭和初期の古き佳き時代でした。
もっとさかのぼれば大正浪漫。当たり前のようにそう思っていたのに、ついこの間まで私たちが生きてきた昭和が、既にノスタルジーになってしまっていることに少なからずショック!

わたしも「昭和的お婆ちゃんですなぁ」と呼ばれて、「ふんふん、あの頃はなぁ」なんて語っているような、あっと言う間にその日が来るような、焦りを!

「昭和的」というときのニュアンスとは? 路面電車や出始めのテレビ、冷蔵庫等は別として、昭和的人間とは?

団塊の世代が定年を迎え、センターにも団塊パワーが生まれるかも知れません。

団塊の世代を象徴する、濃い、熱い、人情味。
それは時代の感性とともに、紙一重の、暑苦しい、ウザッタイ、になってしまいます。

「昭和的」という言葉を調べていますと、昭和的イコール、アナログ的…とありました。なるほど、わかりやすいと思いました。
 
センターの新入生の資料請求も、昭和の時代は、切手を先に送ってきていただいて、その切手を使ってお送りするという、アナログ的なスタイルでした。

今は90%以上の方がインターネットで資料請求。
ポ、ポンとクリックすれば、それだけで資料がお手元に届きます。

それがいいことやら、悪いことやら… 明らかに、コミュニケーションは日々、少なくなっています。

あなただけの、昭和的人間を描いてみませんか?
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by nomelier | 2006-03-22 20:07 | Movie

「道」

b0058500_1922589.jpg先日、ひさしぶりにフェリーニの「道」を観ました。

小説も読むたびに感慨が変わるといいます。映画もそうです。

ずいぶん前には感じとれなかった感慨に包まれました。

アンソニー・クイン演じる大男、ザンパノは、映画の解説では、粗野で獣のような欲望しか持ちあわせない男と称されています。

若いころは、まさしくそう感じていたのですが、今回は、そのような男に感じられませんでした。特に彼が変わった男というよりも、どのような男であろうと、男の奥にひそんでいる、男そのもののように感じられました。

わたしもひねたものだと思います。あんまり幸せではなかったのか、否か… 八十歳か九十歳になったとき、また観てみましょう。きっと違うように感じていることでしょうね。

「道」ができるまでの記録を読みました。

ジュリエット・マシーナのジェルソミーナが息吹くまでのプロセス。

ジェルソミーナのセリフはほとんどなく、あっても深い意味を持つものではないから、マシーナは動作に精根をこめ、変わった歩き方にこだわったそうです。

軽やかなのは足だけで、両肩はずっしりした重みに抑えつけられていて、それまでの人生を引きずって歩くような印象に。

また、フェリーニは口を閉じたまま笑うようにマシーナに指示しました。それは彼が子どものころのマシーナの写真を見て注目した表情なのだそうです。

ジェルソミーナが大男と別れてついてこうか、どうしようかと迷った男がいます。その男が大男に殴られ死んでしまったとわかった瞬間、ジェルソミーナは指先をあごにあてて口を半開きにするのですが、それはマシーナが十歳のときに見た、死んだ我が子を見る女の写真が下敷きになっているそうです。

そこで、たちどまってしまいました。これほどひとりの女のイメージを創りだそうと瞑想するに価するほどの本を、はたしてわたしたちは描こうとしているのかどうか? 

悪い本から悪い映画は生まれても、いい本から悪い映画は生まれない、とい!
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by nomelier | 2005-10-05 19:25 | Movie

時は進み

b0058500_2023713.jpg人を殺した男が、女連れの方が見つかりにくいと云う魂胆で、日劇ダンサーの女を連れて逃げる。

男は意志が弱く、それ故に悪事しか働けない。男に愛想も尽きているのだが、離れられず、ついていくしかない女。

二人は汽車に。熱海で降りて、トラックにヒッチハイク。

不機嫌な女。
トラックはトンネルへ。

トンネルから出ると女にちょっと変化が。

やさしい顔になっている。
トンネルの中で、男がキスしたらしい。

またして次なるトンネルへ。

出てくると、今度は女は男にひっついている。ほだされていく女。

一方のほだす男の手がアップで映ると、爪の先は垢まみれ。
洒落たドンファンではない男が悲しく可笑しい…。

木下恵介の映画「女」より。男は小澤栄太郎、女は水戸光子。

ここからは、数秒の映像で人間の相矛盾する心を描く、シナリオならではの妙味を感じます。
これが小説ならば原稿用紙を何枚も使って、人間の心理の複雑さを表現することでしょう。
限られたシナリオと云う時間芸術の中で、人間の複雑さを描くには、どうすればいいのでしょう?

飽きることなく人間に興味を持って、人間を視つめることから逃げないことが大切なのだと思います。

ワイプの旨さで思い出すのは、山中貞雄の「丹下左膳余話 百万両の壺」です。

子どもなんて、でぃっ嫌いだ、と云うニヒルな大河内伝次郎の丹下左膳が、ワイプの後、子どもと手を繋いで歩いていきます。

そこからは時は進み、人は変わり、あるいは本質に戻れる、生きていくことの、ささやかだけれどステキな幸せ感が伝わります。

昨日、嫌いと思った人が、今日逢えば、嫌いと思った気持ちは失せていき、そんな風に続いていく日々。

時は進み、映像は進み、進む中でその都度、一つ一つの小さな終局を迎え、それでも依然進む中で、きっと変わられる人生を描けたなら…。
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by nomelier | 2005-04-27 20:28 | Movie

弱みを見せたい相手と強みを見せたい相手

b0058500_1746630.jpg好きなシーンです。

「その夜、彼女はブランデーをグラスで大きくあおる。
愛を捨て、金もうけに生きようと決心した夜だ。その時、粗野だがたくましく生きるレット・バトラーが訪ねてくる。
憎みながらも惹かれているスカーレットは、酒のにおいを消すためにあわててオーデコロンでうがいをするのだ。(略)
そして案の定、オーデコロンは何の役にもたたず、酔っていることをレットに見抜かれ、彼のプロポーズを受けてしまう」(日経新聞より)

「風とともに去りぬ」のこのシーンは忘れられません。

オーデコロンでうがいをするスカーレットの心理が、分かるからです。

もしアシュレーが訪ねてきたら、彼女はオーデコロンでうがいをせず、酔ってしまっている弱い自分をみつめて欲しいと思ったことでしょう。
あなたのせいで、私はこんなに弱っているのよ…と見せつけて同情を買い、抱きしめてもらえたなら…と起こり得ない夢想を抱き。

ちょっと色気のない例えですが、関西人は初対面でもボケとツッコミの立場を素早く察知します。
この人の相手をするなら、ボケルしかないなぁ…なんて。
それは人間関係を円滑に進めたい本能のようなもの。

でもこのシーンの女心が果たして、強い男に強みを見せて弱い男に弱みを見せることへの本能的な察知と云うことに、単純につながるのかどうかが、男女間の奥深い処です。
おそらくレットなら見抜くことを、彼女は無意識の中で知っていたのでしょう。

町の娼婦とも関わりのあるレット。
スカーレットはお嬢様として崇めてもらうしか、自分のプライドが守れなかったのでしょう。

生きる術もなく、何もかも失ったボロボロの彼女だから。

そんな彼女の弱みと戦う姿を愛しく求めるレット。

金もうけに生きようと決めたのに、愛されることを捨てられない物語の中の人。

愛されたいのに金もうけにしか時間を費やせない現代人。

男の権威のドラマもいいけれど、女心が勇敢にざわめいているドラマが観たい!
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by nomelier | 2005-01-06 17:49 | Movie

秋の夜、ビノシュを

b0058500_175937.jpg「女優と聞けば、小さな顔の、ほっそりとした足と腕、折れそうな腰をもつ、儚げな容姿を想像しがちなのが、我々日本人であるようだが、ビノシュはそうしたステレオタイプの女優からは、もともと大きくはずれている」(『忘我のためいき』小池真理子著より)

秋の夜、ジュリエット・ビノシュのビデオを続けて観ました。

日本人にとってのヒロイン像のステレオタイプと、ビノシュ演じるヒロインの違いは?

女流作家、ジュルジュ・サンドと詩人、ミュッセとの、すさまじい恋を描いた映画『年下のひと』。

二人は、互いの個性に於いて対立を繰り返します。

ここで思ったことは、恋愛映画での対立のとらえ方です。

日本と西洋、その差を一概に語ればアバウトすぎますが、えてして日本の恋愛ものの対立の構図は、「二人は愛しあっている。二人の対立は世間であり、周囲であり…」と、他者を悪者にしていることが多く、較べて、この映画から感じたことは、二人が互いに真正面から対立している作りです。

通俗的な例えでは、日本では、夫が浮気をすれば妻は相手の女を責めて、表面では夫を責めません。
妻に経済力があるか否かは関係なく、あくまで男の庇護下であることに拘り続けたい、嘘とつきあう空しさを感じます。

較べて、ビノシュ演じる女は、「この、今、生きている私が私なの」と、しかし、きおい立つこともなく、しっかと土に生命体としての太い根を生やしているかのよう。

遥かいにしえの日本女性は、土に根をもち滋養に育ち、大きな心で男や子どもを愛せたはず。

レンタルビデオ店では、売れ筋のアメリカ映画と韓流の羅列。

仕舞うようにひっそり置かれた古典。日本映画のコーナーの淋しさからは、勢いのないアジア一小国のイメージすらも。女優像も映画そのものも、愛情までも、なぜか小さく感じます。

Juliette Binoche】 ファンのページ
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by nomelier | 2004-11-29 11:00 | Movie